| 西暦 | 和暦 | 囲碁事項** |
|---|---|---|
| 1558 | 永禄元年 | 弘化四年二月二十八日、改元。 |
| 1559 | 二年 | 五月、加納輿三郎(後に日海、初代本因坊算砂)、京都長者町で生まれる。 |
| 1565 | 八年 | 利玄(林家元祖)堺で生まる。 |
| 1566 | 九年 | 輿三郎、日淵(後に寂光寺開祖)の門に入りて学ぶ。 同年対局と記録される武田信玄・高阪弾正、及び真田昌幸・信幸父子の譜あり(文政十二年刊「古棋」)。 |
| 1567 | 十年 | 四月、輿三郎、落飾して法名を本行院日海と称す。 |
| 1570 | 元亀元年 | 永禄十三年四月二十三日、改元。 |
| 1573 | 天正元年 | 元亀四年七月二十八日、改元。 |
| 1578 | 六年 | 日淵、京都近衛町に空中山寂光寺を開基(十一月二十入日)。 織田信長、日海の碁に堪能なるを聞き、上洛にさいし引見、「其の方はまことの名人、、、」と嘆称し、以後しばしば召出す。 |
| 1582 | 十年 | 六月一日、日海、利玄ら信長に本能寺に召出され、対局。三劫無勝負となる(あるいは早碁を数局打ったうちの最終局)。同二日早朝本能寺の変起こるも、碁打衆は難を免がれる。 日海、信長の法要を盛大に営み、以後幽居して服喪。 この年、中村道石(道碩)京都で生まれる。 |
| 1583 | 十一年 | 八月、日海、羽柴秀吉の招きに応じて出仕。 この年、林門三郎(一世門入、門入斎)、生まれる。生国は伊賀。 |
| 1585 | 十三年 | 十一月、関白(羽柴改め)藤原秀吉、碁打衆を集めて本邦最初の囲碁御前試合を催す。日海優勝し、同月二日付けで山城国一乗寺内で禄米四石をあたえる旨の朱印を受ける。 |
| 1587 | 十五年 | 閏十一月、日海、駿河に下り、家康のもとに伺候。 |
| 1588 | 十六年 | 五月、大政大臣(藤原改め)豊臣秀吉、再び御前試合を催す。本因坊(日海)、利玄、鹿塩、樹斉、山内、庄林ら参加。抜群の成蹟により同月十入日付けで秀吉、本因坊に朱印を与ぅ。他のものは向後、定先で打つこととす(仙也は師ゆえに互先)。同時に碁の法度を申しつけられ、毎年、禄米二十石二十人扶持を受けることとなる(これを以て「碁所の開始」とする説生ず)。 |
| 1590 | 十八年 | 二月、秀吉の援助により、日海(本因坊)、京都寺町通竹島町に寂光寺を移転。 この年、安井六蔵(一世算哲)、生まる。生国、河内。 |
| 1592 | 文禄元年 | 天正二十年十二月八日、改元。 日海、権大僧都となり、昇殿を許される。近衛家より唐桑の碁盤を贈られる。 |
| 1596 | 慶長元年 | 文禄五年十月二十七日、改元。 十一月十八日、細川幽斎、洛中の碁打衆を集めて碁会を催す。本因坊、仙也も参加。 |
| 1597 | 二年 | 十一月、算砂「本因坊定石作物」(写本)を編纂。 |
| 1603 | 八年 | 二月十二日、徳川家康、征夷大将軍となり、本因坊、祝儀のため伺供、家康と五子で対局。 四月十九日、本因坊、利玄、仙角(仙也の子)、道石(道碩)ら四人、家康の慫慂により宮中で天覧碁を打つ。 十月、家康、江戸帰府にさいし、日海(二世)に寂光寺を法弟日栄(三世)に譲らせ、随行させる。日海ここにおいて本因坊を正式の氏とし、算砂と改名、碁所と将棋所に任ぜられる。 |
| 1605 | 十年 | 玄覚(井上一世因碩、古因碩)、生まる。生国、山城。 |
| 1606 | 十一年 | 十二月四日、豊臣秀頼、大阪城で碁会を催す。『梵舜日記』「豊国二位宅の碁会において、本因坊、利玄坊、山内是安、六蔵(一世算哲)、春智、其のほかの本因坊弟子碁衆、十三人同道」 |
| 1607 | 十二年 | 十一月、算砂と利玄、大阪城で対局。利玄、先相先で打つ。 十二月十五日、算砂「囲碁定石作物」を出版。 |
| 1608 | 十三年 | 本因坊算砂、大橋宗桂(初代)と将棋対局(将棋最古の棋譜)。 |
| 1611 | 十六年 | 杉村算悦(後に二世本因坊)、京都で生まれる。 |
| 1612 | 三年 | 二月十三日、家康、碁将棋衆に禄をあたえる。本因坊算砂、将棋所を大橋宗桂に譲る。 六月七日、算砂、法印に叔せられ、ロ宜案(薄墨の論旨)を受ける。 |
| 1615 | 元和元年 | 慶長二十年七月十三日、改元。 家康、先の五十石五人扶持のほか、特に算砂に三百石を与う。 本因坊算砂、前田利常に招かれ、法弟本照坊日至を伴って金沢に赴き、首席家宅・本多邸に滞在。 |
| 1617 | 三年 | 算砂、前田家の援助により久遠山本行寺を開基、直ちに本照坊を二世とし、京都に帰る。 三月、算砂「碁之狂歌」、「将棋之狂歌」各十一首を書き残す。 この年、安井算知生まれる。生国、山城。 |
| 1623 | 九年 | 四月二十三日、算砂、中村道碩に家督を譲り、同じ手合(名人)を許す。手合以下の法度を計らうべき旨の印可状をあたえる。算悦の育成を依頼。 五月十六日、算砂、京都で没する(六十五歳)。墓所は寂光寺。 (元和年間)韓人・季シャク(しめすへんに勺)史、来朝し、算砂と三子で対局し敗る。季、帰国して盤石に「乾坤窟」と書した扁額を贈り来る。 |
| 1624 | 寛永元年 | 元和十年二月三十日、改元。 |
| 1626 | 三年 | 九月十七日、中村道碩、二条城で安井算哲(一世)と対局。 |
| 1628 | 五年 | 南光坊天海(1536〜1643)の推薦により安井算知(十二歳)召出され、一家を成す(安井家は算哲家と算知家の両家を生じるが、碁方としての算哲家は二代算哲が天文方・保井算哲(渋川春梅)となったため絶家)。 |
| 1630 | 七年 | 八月七日、中村道硯の願いにより、杉村算悦、算砂の後式となり、本因坊の名跡を継ぐ(碁会初の相続例、家元の発生)。 同月十四日、道碩没(四十九歳)。 『古本因坊定石作物』出版。 |
| 1635 | 十二年 | 幕府、寺社奉行を置く(碁将棋方の所属は覚文二年)。 |
| 1636 | 十三年 | 丹羽道悦(後に三世本因坊)生まれる。生国は伊勢松阪(あるいは石見ともいう)。 |
| 1639 | 十六年 | 二代目安井算哲(後に保井、また渋川春海)、生まれる。 |
| 1640 | 十七年 | 二世林門入、生まれる(推定)。 碁所詮議。安井算哲(一世)の自薦却下。 (覚永年間)『玄玄碁経』(覚永版)出版。 |
| 1644 | 正保元年 | 覚永二十一年十二月十六日、改元。 本因坊算悦と安井算知に六番碁を下命(御城碁の開始、1653年(承応二)終了)。 この年、安井知哲、生まれる。 |
| 1645 | 二年 | 山崎三次郎(後に四世本因坊道策)、石見国(大田郡。馬路村。神の前)で生まれる。 |
| 1646 | 三年 | 桑原道節(後に井上三世、名人因碩)、美濃国大垣で生まれる。 |
| 1648 | 慶安元年 | 正保五年二月十五日、改元。 |
| 1650 | 三年 | 山崎千松(後に井上道砂、二世因碩、道策の実弟)、石見国(大田郡。馬路村)で生まれる推定)。 |
| 1652 | 五年 承応元年 | 一月九日、一世安井算哲、京都で没する(六十三歳)。 九月、『碁経』(碁伝記、二巻)出版。版元は京都鳥丸通七観音町、久須見九左衝門。 慶安五年九月十八日、改元。 |
| 1653 | 二年 | 十月十七日、本因坊算悦・安井算知六番碁終了。算知、先相先で四勝二敗互いに得番勝ち)となり、碁所は預り(互先で三勝三敗とする説もある)。 |
| 1655 | 明暦元年 | 承応四年四月十三日、改元。 |
| 1656 | 二年 | 宗算『囲碁十首歌』出版。版元は京都五条寺町、中野太郎左衛門。 |
| 1657 | 三年 | 十月二十四日、二代目安井算哲(渋川春海)、算知部屋住みとして召し出される召出さる。 |
| 1658 | 万治元年 | 明暦四年七月二十三日、改元。 九月十六日、二世本因坊算悦(四十八歳)没。道悦、後式相続を許され、三世本因坊となる。 |
| 1659 | 二年 | 二代目安井算哲、算知後見で家督を相続。 十一月二十四日、本因坊道悦、安井算哲(二代目)、御城碁に初出仕。爾後、道悦は延宝三年まで十一局、算哲は天和三年まで十七局を勤める。 |
| 1661 | 寛文元年 | 万治四年四月二十五日、改元。 三月、前田入道一乳編『碁経』出版。版元は京都鳥丸通下立売下町、野田庄右衝門。 |
| 1662 | 二年 | 十月十三日、幕府、碁将棋衆を寺社奉行所属とする。 |
| 1664 | 四年 | 知哲、部屋住みで扶持を受く。 |
| 1666 | 六年 | 星合八碩(道策五弟子の一人)生まれる。生国、伊勢(津)。 |
| 1667 | 七年 | 七月二十八日、林門入斎(一世門入、八十五歳)没。 十月二十日、本因坊道策、安井知哲、御城碁に初出仕。爾後、道策は天和三年まで十五局、知哲は元禄十二年まで二十局を勤める。 |
| 1668 | 八年 | 十月十八日、安井算知、名人の手合に進み、碁所を拝命。本因坊道悦、明後日の御城碁の手合割りは定先と下命を受け、遠島も辞さずと争い碁を願い出る。幕府、道悦の先で六十番の争碁を命ずる。 同月二十日、御城で算知。道悦の争碁開始。 |
| 1669 | 九年 | 小川道的(後に道策の跡目となり本因坊姓を名乗る)生まれる。生国、伊勢(松阪)。 |
| 1670 | 十年 | 九月二十二日、道悦、十六局目に六番勝ちこしとなり、名人算知に対し先々先の手合割りに直る。十月十七日、御城碁で算哲(二代目安井算哲、後に保井、また渋川春海)、道策に対し、第一着を天元に打つ。片岡因的(後に因竹、四世林門入、隠居して朴入)生まれる。 |
| 1672 | 十二年 | 三崎策雲(後に井上因節、四世因碩、系図書き挽え後は五世)生まれる。生国、越前。 |
| 1673 | 十三年 延宝元年 | 一月四日、井上因碩(一世、系図書き換え後は二世、六十九歳)没。 『碁立』(碁立初心抄)出版(京都、菊屋七郎兵衛)。 同年九月二十一日、改元。 十二月十八日、山崎道砂、井上因碩の後式を許され、井上道砂となる。 この年、安井仙角生まれる。 |
| 1674 | 二年 | 三月十八日、井上道砂、二世因碩と改名し、御目見得を許さる。十一月二十四日、安井春知、御城碁に初出仕。爾後、貞享三年まで七局を勤める。 |
| 1675 | 三年 | 安井算知。本因坊道悦の争碁終了(六十番の予定なるも二十番で打止め)。佐山策元(後に道策の再跡目となり本因坊姓を名のる)生まれる。 |
| 1676 | 四年 | 安井算知、碁所を返上。爾後は隠居名人として元禄九年まで二十年間出仕(対局は免除)。 |
| 1677 | 五年 | 九月十八日、三世本因坊道悦、隠居願を出す。同時に跡目道策の家督相続願、ならびに道策を名人碁所に推薦。 十二月二十日、道悦隠居願、聞き届けられ、道策四世本因坊となる。ただし道悦も引続き出仕を命ぜられる。道策、名人碁所内命、二十三日、御城碁の手合割り及び手合組を呈出。同二十四日の御城碁に将軍家網出座。 |
| 1678 | 六年 | 五月、本因坊道策に名人碁所の証文を下付。日付は徳川家康の忌日にちなみ、四月十七日付けとす。 この年、二世林門入の長子、長大郎(後に三世林門人)生まれる。 |
| 1681 | 天和元年 | 延宝九年九月二十九日、改元 |
| 1682 | 二年 | 四月十七日、本因坊道策、島津家の依頼により琉球人・親雪上浜比嘉(べいちん・はまひか)と四子で対局。一勝一敗。浜比嘉の願いにょり、四月二十六日付けで、上手に二子(三段相当)の免状をあたえる。 十二月二十日、星合八碩、御城碁に初出仕(十七歳、六段)。以後、元禄二年までに七局を勤める。 この年の某日、道策、小川道的と互先二局を試み、打ち分けとなる。 |
| 1684 | 貞享元年 | 天和四年二月二十一日、改元 十月十五日、小川道的、道策の跡目となり、十八日御目見得。 十一月二十八日、安井算哲(二代目)、将軍綱吉に新暦(貞享暦)を献上。 十二月一日、算哲、碁役を免じて天文方を命ぜられる。 十二月十六日、本因坊道的、御城碁に初出仕(十六歳、七段)。以後、元禄二年まで五局を勤める。 |
| 1686 | 三年 | 三月十一日、二世林門入没。林長大郎(入歳)後式となり、三世門入となる。 |
| 1688 | 元禄元年 | 貞享五年九月三十日、改元 |
| 1690 | 三年 | 五月七日、本因坊道的没(二十二歳)。 八月三日、桑原道節、二世井上因碩(道砂、系図書き変え後は三世)の養子となり、跡目を許される。 同月十五日御目見得。 十二月八日、井上道節、御城碁に初出仕。元禄十四年まで十局を勤める。 この年、神谷道知(後に五世本因坊)、林因長(五世門入)生まれる。 |
| 1692 | 五年 | 一月、星合八碩没(二十七歳)。 十月、佐山策元(十八歳)は本因坊道策の再跡目、安井仙角(二十歳)は算知家の跡目を許され、十一月二十八日、御目見得。 十二月七日、本因坊策元、安井仙角、御城碁に初出仕。以後、策元は元禄十一年まで七局、仙角は享保十八年まで三十五局を勤める。 |
| 1694 | 七年 | 一月、「碁立手引鑑」(二冊)出版。版元は江戸日本橋南一丁日、須原屋茂兵徳。 |
| 1695 | 八年 | 三世林門入(十八歳、初段)、御城碁に初出仕、以後、宝永元年まで七局を勤める。 |
| 1696 | 九年 | 六月六日、安井算知、隠居。安井仙角、算知家の家督を相続。 同月、二世井上因碩(道砂)没(推定、四十五歳)。井上道節、三世因碩となる。 |
| 1699 | 十二年 | 本因坊策元没(二十五歳)。 |