| 一
信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
二 四方にそびゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
三 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
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四
尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床
五 旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も
六 吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山
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| 一番と四番のメロディー(MIDIファイル、7.5KB) | ||||
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| ヤマハのMIDPLAGを利用しています |
| お手持ちのプレーヤーで演奏します。 | |
| その他 | |
MIDIファイル(7.5KB) |
WMAファイル(133KB) (雑音が多いのですが、 音のイメージは再現されています) |
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1899年(明治三十二)、長野師範学校(現信州大学教育学部)教諭の浅井洌(きよし、1849〜1938)が作詞、翌1900年に同校教諭の北村季晴(すえはる、1872〜1930)が曲をつけて、当時の師範学校の行事などで歌われました。学生が教師として県下に赴任して全県に広がり、連綿と歌い継がれたことで、1968年(昭和四十三)5月20日には県歌として制定されました。 長野県の唱歌教育推進のために信濃教育会の意向を受けた同校教諭の依田弁之助が、同僚の浅井に作詞を依頼して作曲しましたが人気はなかったようです。東京音楽学校で依田の2年後輩だった北村が青森県から同校に招聘され、浅井の詩に深い感銘を受けて作曲したところ、多くの生徒に歌われるようになり、運動会の女子部生徒の遊戯にも使われました。 軽快で親しみやすいメロディーが印象的で、四番のみが穏やかな調子の詠唱として全体のバランスに工夫が凝らされています。作曲した北村は東京に生まれ、東京音楽学校を卒業後にしばらく教師をしてから本格的な音楽家として一家を成しました。1901年2月には師範学校を退職していますから、長野滞在は一年ほどの短い間でしたが、まことに大きな足跡を残したものだと思います。 背景画像は更埴市の千曲橋から見た冠着山(かむりきやま)と千曲川です。冠着山は姨捨山、更級(更科・さらしな)山とも呼ばれてきました。 |
信濃の国(しなののくに)
| 一
信濃の国は十州(じっしゅう)に
二 四方(よも)にそびゆる山々は
三 木曽の谷には真木(まき)茂り
|
四 尋(たず)ねまほしき園原(そのはら)や
五 旭将軍義仲(あさひしょうぐんよしなか)も
六 吾妻(あずま)はやとし日本武(やまとたけ)
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